2012年4月から某法科大学院(ロースクール)に入学。で、ブログ始めます。
すっごい長文です。
先日から司法試験が始まりました。
各所も司法試験の話で持ち切りです。
僕も、3年後に試験が受けられるように頑張らなくてはならない、と切に思います。
しかしながら、最近思うのですが、「頑張る」と「努力する」は、目標に向かうための最善の要素なのではないでしょうか。
よく、「努力をすれば、夢は叶う」と言います。「努力」とは目標を達成するための最善の要素であるように、よく語られます。
「努力」……この言葉がどうしても、最善の要素でないように思えてきました。
そのように思えてきたのは、為末大(陸上競技、日本代表)選手のある言葉を見たことがきっかけです。
為末選手は、おおよそ以下のように述べています(なお、Twitterでの発言です)。(「」内は引用。以下、僕による要約です。)
すなわち、いかなるときも努力をしなければならない、と思っている人など、頑張りどころで自分を許すことが出来ない人は、「自分が監視を逃れれば自分とは本来怠けて楽な方に流されるもので、それを理性で律しているからこそ人は努力できるという世界観を生きている。
だから監視の目を緩めると人は堕落すると感じる。」
しかし、「皮肉な事に何かを成しとげる時には、無邪気なモチベーションが作用している事が多く、無邪気さはある程度自分を許せないと湧いてこない。」
……北京オリンピックから去就が注目された為末選手の言葉だけに、非常に重く感じます。
この為末選手の言葉を基礎に再考すれば、こういうことではないでしょうか。
努力とは、甘えている自分を矯正するために、無理やり行動に移していること。
どうでしょうか?
たとえば、好きな異性が洋楽をとても好きだとする。しかし、自分は洋楽が嫌い(苦手)であり、なかなか親しめない。
だけど、自分は好きな異性に近付くために、頑張ってレディ・ガガやコールド・プレイを聞きあさる。その作業は(苦手な人からしたら)苦痛であるが、好きな異性のために「努力」する……。
別にこれ自体は、美しい努力な気がするし、否定はしない。しかし、そこまで「努力」をする必要があるのだろうか。
というのも、他にその異性を狙っている天敵がいて、そいつは洋楽を聴くことが趣味であるとする。
すると、そいつは何の苦もなく、好きな異性と洋楽の話をし、また一緒に聴くことができる。これは「努力」ではない。
単純に、自分の趣味と、好きな異性の人の趣味とが合致して、「楽しい」感覚のなかで「夢中で」ゴールへ近づく。
一方、自分は努力をしているのに、「Let it be」の歌詞すら覚えられない。けれど、天敵のそいつはカラオケで多種多様な洋楽を、好きな異性とガンガン歌っているのを尻目に、「自分は努力をしてるのに、実らない。やはり、才能がないのか」と落ち込むのでしょうか。
おそらく、洋楽が嫌いな人は、この洋楽好きの天敵に勝つことは難しいのではないでしょうか。
では、司法試験をこれに置き換えてみます。
「法律の勉強が好きだ。」
「法曹になるためのプロセスが楽しい。」
「知識を吸収するのが楽しい。」
という感覚で勉強をしている人と、
「勉強なんてしたくない。でも、10時間くらい努力してやろう」
「六法なんて見たくもない。捨てたい。でも、徹夜で頑張ってやる」
という人とでは、どちらの方が効率が良いか。
おそらく前者の方が、勉強にかける時間が短くても、大きな効果があるような気がします。
(…いや、たしかに学説ばかり調べて楽しんでる人は、試験に向かないような気もしてきたが……、まぁ、それはそれで…さ。)
(話は戻って)だから、「努力」は目標を達成するための最善の要素でないように最近、思えてきたのです。
いや、だからと言って、「好き」ってだけで目標が達成されるとは思いません。それで達成できたら、彼氏や彼女なんてすぐに出来てしまいます。
だから「努力」も必要であると思います。
ただ、苦痛の意味での「努力」と無邪気に楽しみながら「夢中に行動すること」には、距離がある。
「努力」の苦痛が、「夢中」の中に包含されれば、とても強い推進力となると考えます。
だから、僕は「好きだから勉強する」という初心を忘れずに、勉強をしたい。
大量で膨大な勉強(予習・復習)が苦痛に感じるときもあるかしれない。
そんなときに、もう一度、なぜ自分がこの道を選んだのかを、思い返して、勉強したい。そうすれば、いつもより少し質の高いところにいられる気がする。
結びに代えてに、再び為末選手の言葉を引用します(為末選手のTwitterは本当に素晴らしいので、みなさん是非、原文をご覧ください)。
自分なんて許してしまったら、だめな自分になって、価値が無くなってしまうという恐れが自分を許す事を一番阻害している。そして残酷だけれど、努力は夢中に勝てず、義務は無邪気に勝てない。自分を許して何をやりたいかの声が聞けたとき、継続可能なモチベーションを人は知るんだと思う。 (為末 大)
法律の基本書なるものでなく、論文等をまとめた本はタイトルにかっこよさ(?)を感じることがあります。
たとえば、木村先生の『憲法の急所』とか、初めてタイトルを聞いたに「んん!」ってなりました。
急所…ということは、これさえ読めば憲法がわかるのか! と思いました(もっとも、読んだことはありません。)
石川先生の『自由と特権の距離』は、(内容もさることながら)、タイトルの時点でもう高度な感じが出てますよね。
最近では小山先生の『「憲法上の権利」の作法』とかも結構洒落たタイトルではないでしょうか。(僕だけ?)
憲法学者は、キャッチ―なタイトルをよくつけるんですね……。
そういえば、佐藤(幸)先生も『憲法とその“物語”性』のという名の本を出していますし……。
他の分野の学者はあまり変わったタイトルをつけませんよね。
しかし、何と言っても、この方には勝てないのではないでしょうか。
そうです。 長谷部先生ですね。
『比較不能な価値の迷路―リベラル・デモクラシーの憲法理論』
長谷部先生は、狙ったカッコ良さ感がたまりません。
『憲法の理性』とかも。
民事系、刑事系とかって、『○○論』とか『××の研究』というような硬派なタイトルが多いですよね。
やっぱり、憲法だけの特有の事情なのだろうか。うーん。
| 05 | 2026/06 | 07 |
| S | M | T | W | T | F | S |
|---|---|---|---|---|---|---|
| 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | |
| 7 | 8 | 9 | 10 | 11 | 12 | 13 |
| 14 | 15 | 16 | 17 | 18 | 19 | 20 |
| 21 | 22 | 23 | 24 | 25 | 26 | 27 |
| 28 | 29 | 30 |